生野銀山は、リアルだった。……マネキンが。
竹田城跡へ行ったGW、同じ兵庫県朝来市にある生野銀山(いくのぎんざん)も見学してきたんです。
なんでも、近代化産業遺産だそうで。
全国各地には、我が国の産業近代化の過程を物語る存在として、数多くの建築物、機械、文書が今日まで継承されており、これらは、自らが果たしてきた役割や先人たちの努力など、豊かな無形の価値を今に伝えています。経済産業省では、これらの歴史的価値をより顕在化させ、地域活性化の有益な「種」として、地域の活性化に役立てることを目的として、これらを「近代化産業遺産」として大臣認定……
近代化産業遺産(METI/経済産業省)
正直、まったく興味がありません。
が、せっかく生野まで来たことだし、地元の方がガイドしてくださると言うし、行ってみるべ!
生野代官所、とある。
天正6年に織田信長が生野に代官を置き、その後、豊臣秀吉、徳川家康と続いたらしい。
明治22年には皇室財産となり、明治29年には三菱合資会社に払下げ。
昭和48年には鉱量枯渇等により坑内生産中止。鉱山部門閉山。
と、ながーい歴史を持つ生野鉱山。
山の中ではこんな感じで作業していたよーという模型。
アリの巣のよう。
人ひとり通るのがやっとの狭さ。掘る面積がなるべく小さく済むように、かがんだ状態で通る。
考えただけで息苦しくなります。
ガイドさんの説明を聞きながら1時間ほどかけて坑内をまわりました。
薄暗く、湿っぽく、ひんやりとした坑道。
ガイドさんの説明で印象に残っているのは、
・手作業で掘っていた江戸時代の頃は、水死による事故が多かった。
地下水が一気に噴き出し、逃げきれなかったらしいです。近代になり爆薬などを使うようになってからは、崩壊による事故が多くなる。
・40歳まで生きれば長寿の祝い。
掘削によって鉱物の塵を吸い込むため、多くの人が数年で肺の病気を発症、亡くなったらしい。人間50年と信長は謡ったけれど、それよりはるかに短い人生だったとは。
所々で作業員を模したマネキンがいて、当時の作業風景がイメージしやすい。
地下水に濡れながら薄暗い中で黙々と働き続けるマネキン作業員(彫りの深い外国人顔のマネキン)に、哀愁を感ぜずにはいられません。
もしかしたら、明るい華やかな場所で、オシャレな服に身を包んでポージングする人生を送っていたかもしれないのに。
一生、この日の当たらない冷たい場所で働き続けるのか。
……なんてどうでもいいことを ガイドさんが一生懸命に説明してくれる中、考えていたわけです。
あるかないかも分からない(たぶん、ない。)マネキンの人生に思いを馳せて、私の生野銀山観光は終わりました。
だってなんだかリアルなんだもの。